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こだま投稿 4月28日 西日本新聞社説「ドローン規制」






 日米関係のあり方を、今どのように整理しようとしているのか、が30日社説を読んでますます分からなくなった。東西両陣営が非妥協的に対立していた冷戦が終わった。共産圏の拡張を食いとめるという共通の目的のもとに日米関係は成り立っていた。前提が崩れた。
 日米の新たな共通の目的は何に変わったのか。社説によれば、〈中国の軍事的台頭に対する強い結束を示す〉ためということになる。そこまでなら話は単純なのだが、中国の軍事的脅威から日本をアメリカに守ってもらうために、世界のあちこちで軍事介入をしているアメリカの加勢を自衛隊にしてくれというのが付いてくるからややこしくなる。つまり、日本の敵となる恐れのある中国との軍事的対立はもっぱらアメリカに任せ、日本の直接の敵ではない「アメリカの戦争の相手」との戦いに自衛隊を出すわけだ。積み木細工の危うさを感じる。日本がめざすべきは憲法がうたう世界の警察としての国連強化ではないのか。

こだま投稿 4月29日 西日本新聞社説「日米新防衛協力指針」








 17年ぶり改訂の「日米防衛協力指針」が突然新聞紙面に登場した。改訂内容に危機感を抱く29日社説によれば、新指針は〈自衛隊と米軍の際限なき一体化〉であり、〈日米安保条約の枠組みを踏み越え〉自衛隊の〈対米協力は質・量とも飛躍的に拡大〉し、〈政府が必要と判断すれば、自衛隊は「世界のどこでも、いつでも」米軍を支援できる〉という。
 内容そのものが驚きだし、さらに信じがたいのは、〈安全保障法制見直しを先取りした内容になっている〉と社説が指摘する点だ。国論を二分する形でこれから議論が開始されようとしていることが日米両政府の間で既に約束事になっているというのである。主権者である日本国民はあってなきがごとくである。
 社説の主張に一々納得しながら私は次のことが気になった。災害救助活動の自衛隊依存がますます高まる中、いつでもどこでも自衛隊が米軍の下に出動すれば、愛される自衛隊は変質し、被災者は泣きっ面に蜂状態となる。


こだま投稿 4月28日 西日本新聞社説「ドローン規制」






 3Dプリンターで発砲できる拳銃を作ったという記事にも衝撃を受けた。わくわくするような科学技術の発達は、一方で危険をもたらす。技術が高いほどほど対策の困難さも増す。さらに今回はドローンの官邸侵入である。
 28日社説は〈利便性と安全性を両立させるルールづくりを急ぎたい〉という。法規制の早急な整備は必要としてもその前に整理すべきことがある。社説は繁華街やマラソン大会での墜落事故もあり、従来から法規制を求める声があったとする。だが、墜落事故と今回の官邸侵入は意味が違う。墜落事故には悪意はなく単に操作や機体の水準が劣っているだけの話だ。官邸進入は悪意がある。テロ集団が国家転覆をもくろんで官邸や原発を破壊する意図で進入するような事態には、ドローンを法規制するという手段で対抗することはできない。もっぱら防ぐ体制をいかに構築できるかにかかっている。皮肉っぽくいえば切れ目のない防衛体制がここにこそ問われている。

こだま投稿 4月27日 西日本新聞社説「統一選を終えて」


 今回の統一自治体選は、低投票率と無投票選挙区の多さとで有権者の地域政治離れを心配する声が多かった。27日社説も取り上げた。
 無関心を払拭する切り札は、新聞がいかに地域政治を紙面に多く取り上げるか、かつ有権者が関心を高めるような企画と取材をするかであり、それしかないと確信している身としては、物足りない社説の内容だった。その使命感は皆無だし、したがって決意もない。
 現状の新聞を読んで、地域政治家に魅力を覚えあこがれて自分もやってみようという情熱を抱く若者が出てくるであろうか。号泣議員を筆頭に、あこがれるどころかひんしゅくを買う議員の紙面への登場が圧倒的に多い。
 〈地方の英知と努力を結集して〉自治を再建せねばならないと社説は高らかに宣言する。その言葉をそのまま新聞人に返したい。地域政治の閉塞を打開するのは、ひとえに新聞の働きにかかっていると私は信じているからだ。新聞人の努力にすがるしかないとさえ思う。

こだま投稿 4月26日 西日本新聞社説「全国学力テスト」





 全国学力テストといえば、60年近く前の中学生だった私には印象に残っている場面がある。テスト会場の教室で二人の先生が険悪な雰囲気になった。当時日教組は学テ反対闘争を取り組んでいたのを知っていたので賛成派と反対派の対立だと分かった。なぜ先生たちが学力テストに反対するのか分からなかった。
 新聞に日教組の役員の言葉が載った。「保護者に反対理由を説明すれば分かってくれる」と役員はインタビューに答えていた。その時素朴な疑問を覚えた。教育を受けている当事者である生徒はなぜカヤの外かという疑問だ。
 全国学力テストのあり方を論じる26日社説の論の展開にも子どもへの無視がある。〈学力テストはどうあるべきか。教育関係者は改めて自問してもらいたい〉と社説は書く。この教育関係者という範疇に生徒は含まれていないと感じられるからだ。全国学力テスト実施の是非、実施する場合のテストのあり方を論じるとき、生徒の意見が尊重されるべきだ。

こだま投稿 4月25日 西日本新聞社説「自民党の修正要求」






 こだま投稿文に知人から讃辞をもらった。気分は高揚する。人間はほめられるのに弱い。お世辞半分などとはつゆほどにも思わない。まして選挙で当選したとなると、投票という明確な裏打ちがあるわけで自信とか達成感とか並大抵なことではないだろう。だから一人勝ちが続く自民党がおごり高ぶるのもやむを得ないのかなあと、専横ともいえる最近の自民党の姿勢に憤りつつも、妙に納得できる。多少の跳ねっ返りは、我々有権者が自民党に圧倒的多数を与えたゆえのものなのである。
 だが福島社民党副党首に対する「発言修正要求」はひどい。議員が自らの首を絞めるようなものではないか。25日社説が〈あしき前例とならないように、自民党は直ちに修正要求を取り下げるべきだ〉と断定するとおりだ。
 日本の安全保障環境が大きく変わりつつあるとき、言葉をぶつけ合う低次元の論戦ではなく有権者の理解が深まる議論を、どうやって作り出していくのか政治家は努めてほしい。

こだま投稿 4月24日 西日本新聞社説「日中首脳会談」





 安倍首相の政治姿勢に批判的な人は「暴走している」とこきおろす。私も首相のバランス感覚に疑問を抱いている一人だ。だから23日朝刊一面トップの中国習近平国家主席との笑顔のツーショットにはホッとしたし嬉しくなった。24日社説は〈この流れを大事にしたい〉と早速取り上げていた。流石のセンスだ。
 中国という国は間違いなく、これから長期にわたって世界の動きに大きな影響力を持ち続けるだろう。我が日本はその中国と地政学的に最良の位置にいる。かつ、かってはその文明を必死に学ぼうとした超先進国であったし、いまでは民主主義や工業技術といった現代社会の先端的な水準に達している日本の成果を中国に伝える関係である。互いになくてはならない、そして尊敬すべき関係を続けるべきなのだ。その方向に向かって安倍首相がしっかりとした決意と覚悟で臨もうとしていると期待し信じたい。社説が助言する〈政権として脇を締める〉ことが今一番大事である。


こだま投稿 4月23日 西日本新聞社説「川内原発仮処分却下」






 原発再稼働と司法との関係を、鹿児島地裁の仮処分却下を題材として23日社説は書いた。原発再稼働に対する司法のあり方については、そんなことは枝葉末節ではないか、と思う。
 広範な地域の安全や経済や人命に、あれほどの害をもたらした事故の責任者である東電や政府関係者の一人として刑事罰に問われない司法の現状と限界こそが問題なのだと思う。
 信賞必罰がすべてではないことは分かる。だが、人の命を脅かし、地域を消滅させかねない可能性がある危険物を無責任に扱ってきた人たちが罪に問われないとなれば、間違いなく現場は本質的に変わらない。大災害やテロがあれば大惨事になると分かりながら責任ある対策は講じられないままに、何年後か何十年後かに原発事故で多くの人が塗炭の苦しみにあい、誰も責任を取らないことがくり返されるのだろう。私は東電や政府の関係者を憎む気になれない。それを許した司法の無作為の方が問題だと思う。法曹界立ち上がれ。

こだま投稿 4月22日 西日本新聞社説「安保与党協議」






 安保与党協議をテーマとした22日社説を読んでいて奇妙なことに気付いた。社説は最後に〈拙速で決めては将来に禍根を残す。(中略)まだまだ論議が足りない〉と書く。議論にまだ時間をかけよというのだが、これまでも自民党と公明党の駆け引きを読者は延々と読まされいるのにさらに続けよというのか。両党に対立点は多いとはいえ、「国際平和支援法案」なるものを推進しようとする点では一致している。野党は文字どおり蚊帳の外だ。
 有権者は勘違いするのではないか。社説がいうように両党が心ゆくまで議論を続行したとしよう。十分に審議が尽くされたのだから、そのまま成立させても大丈夫と錯覚しないか。
 法案策定過程というのを、新聞はいつもはこんなに丁寧に伝えない。極端にいえば法案づくりは密室の作業だ。だが今回ばかりは審議の成り行きを逐一大きく取り上げる。下司の勘ぐりかも知れないが、与党両党の策略にマスメディアは乗せられているのではないか。

こだま投稿 4月21日 西日本新聞社説「過疎地の足」






 21日の社説は〈貨客混載で利便性向上を〉の見出しで「過疎地の足」を取り上げた。貨客混載とは〈トラックに客を乗せたり、タクシーで貨物だけを運んだりする〉ことである。
 これまで規制されていた貨客混載を国土交通省が過疎地で解禁する方針を決めた。そのことをおおむね評価するのが社説の主旨だ。
 出発点が違うと思った。過疎地の交通体系をどのように構築するのかは、地域の実情がよくわかっている地元の人たちが考えてこそうまくいく。全国一律で策定するなど無理な話だ。こんなことをいまだに国の役所が取り仕切っていることに面食らう。その前提で論を展開しようとする西日本新聞の論説に物足りなさを感じる。誰の立場に立っているのか。
 社説は〈地域の実情や住民のニーズに応じた「過疎地の足」を確保していきたい〉と結ぶ。地域の実情や住民のニーズが出発点であるなら、なんでその解決を霞ヶ関に任せてこと足れりとするのか。地方創生なのに寂しい。

こだま投稿 4月20日 西日本新聞社説「農地バンク」






 小役人人生を送った私は「農地中間管理機構」などという名称を聞くと中央官僚の天下り先用につくられたとピンとくる。さらに業務実績が目標の約3%と続くともう間違いなく官僚の官僚による官僚のための組織である。
 だから20日社説が提言する〈農家に事業の意義や利点をくり返し説明し、意向を丁寧にくみ取ることも重要だ〉は同機構には馬耳東風だろう。失敗すればまた新たな天下り団体を増やすチャンスにつながると虎視眈々だ。
 中央官僚をいたずらに貶める気はさらさらない。能力も高く激務に耐える強靱な頭脳と体力を持っている人たちだということは掛け値なく認める。しかし天下り先を作り出す習性に関しては異常なほど劣等な人たちである。
 社説は〈農地や農業の状況は地域ごとに違う。全国一律ではなく、地域の実情に応じた工夫が必要である〉と書く。これも無い物ねだりだということが分からないのだろうか。中央任せでなく県市町村の出番ということだ。

こだま投稿 4月19日 西日本新聞社説「介護保険料」







 幸か不幸か長生きできれば遅くとも15年後には何らかの介護サービスを必要とする立場になる。介護保険制度の安定と拡充は身近な願いであり関心事だ。一方で保険料を年金からの控除という形で負担している身としては保険料の引き上げは直接的に生活に影響する。
 行き届いた介護を受けたいがさりとて負担が大きいのも困ると若い人から見れば身勝手な悩みとは分かりつつも切実な問題ではある。 19日社説がいう〈団塊世代が75歳以上になると25年度には全国平均月額が8200円に〉なるとされる当の団塊世代なので身の置き場もないような思いに追い込まれる。それだけが理由ではないが健康寿命のハウツー本を読んで極力介護のお世話にならないよう有酸素運動と筋肉づくりに勤しむ罪滅ぼしの毎日だ。
 少々自虐的に書き進めたが、介護保険こそ運用次第で助け合い精神が横溢する社会づくりへの切り札になると信じている。介護者も被介護者も支える人も三方良しも夢ではない。

こだま投稿 4月18日 西日本新聞社説「首相と沖縄知事」








 私たちには国の政治の最高権力者として安倍首相がいる。長期政権をほぼ手中にした勢いである。じっくりと日本の政治の難問に挑んでほしいと思う。しかし問題なのは首相の政治姿勢がわかりにくいことだ。最も重要な点は、戦後レジームからの脱却、すなわち占領軍としてのアメリカが築いた日本の戦後体制を否定しながら、一方でアメリカを全面的に信頼して国内に米軍基地を唯々諾々とかつ喜び勇んでという感じで提供していることだ。普通の国をめざす主権国家の首相としてこれほど恥ずかしいことはあるまいと思うのだが。
 首相はそもそも、最大の同盟国と目されるアメリカとどうつきあおうとしているのかさっぱり分からない状態に国民はおかれている。
 〈首相の沖縄への共感こそが、普天間問題解決の大前提だ〉とする18日社説に、だから納得できない。沖縄の米軍基地問題を議論しようとするときの大前提は、安倍首相とアメリカとの関係の整理こそすべてではないのか。

こだま投稿 4月17日 西日本新聞社説「自民党TV局聴取」






 私も、今の自民党の唯我独尊の姿勢には疑問を感じる。だがテレビ局に対し番組企画への要望をすることが〈テレビ局には強い「圧力」と映り、放送を萎縮させかねない〉とする17日社説にはちょっと違うなあと感じる。報道陣、言論人の気概はどこにいったのかと思うからだ。逆に反骨精神を発揮する場面だ。
 第四権力という言い方がある。テレビ局の力、とりわけNHKと民法キー局の力は絶大であり怖いほどである。世論とか民意とかいうのは、テレビ局の意のままになるわけではないものの、時と場合によっては非常に重要な政治の方向を決定づけるような機能をテレビ局は持っている。庶民を睥睨する権力者だ。
 たとえばあるテレビ局がヒットラーを賞賛するキャンペーンを張って連日関連番組を連発したとしよう。その場合政権与党であっても自粛することなく敢然とその非を諫めるべきだ。恐るべき力を持ったテレビ局への肩入れは不要だ。自助努力を待てばいいことだ。

こだま投稿 4月16日 西日本新聞社説「少年法適用年齢」






 少年法適用年齢の引き下げ是非を論じる16日社説はもどかしい。結論は〈冷静に議論したい〉である。この結論、すなわちじっくり議論をしていいのは、現行制度下での弊害が少なく将来的に増大の恐れがある場合だけだ。だが現実には件数は激減したとはいえ悲惨な死に追いやられた被害者とその家族がいる。
 社説は、〈まず直視する必要がある〉として〈格差と貧困、教育と福祉、さらにはネット環境の問題など〉をあげる。それらの解決が先だと主張しているのだろうか。さらに貧困や教育・福祉の不備で犯罪に走った少年には情状酌量の余地ありといいたいのだろうか。 新聞の社説だから日頃の事件取材の生々しい現場感覚からの具体的な問題解決の論陣を発揮してほしかった。たとえば加害者少年の更生という観点だけではなく、被害者家族の苦悩と絶望という立場からの問題提起、軽度の犯罪と殺人などをごっちゃにしている現行法の問題など事実に立脚した主張がほしい。

こだま投稿 4月15日 西日本新聞社説「高浜原発仮処分」






 〈政府は今回の決定をまずは重く受け止めるべきだ。〉と、高浜原発の再稼働を認めない福井地裁の決定を取り上げた社説(21日)を結ぶ。なんだか生ぬるいと感じる。また〈政府の本音はどうか〉については〈政府の動きなどを見ると、原発回帰が明らかである〉とする。読者の多くは、政府が原発回帰どころか推進の姿勢にたっていることは先刻承知だ。
 ここで読者が新聞という公器に期待するのは、〈福島第一原発事故を「なかったもの」にすることはできない〉のに、なぜ政府はなりふり構わず原発再稼働に向かうのかを、政府の公式の見解にとどまらずすべての理由と背景に肉薄して明らかにしてくれることだ。
 反原発の集会で原子物理学専攻の講師が、「原発推進の流れは、大事故が起きるか政権交代がないと食いとめることができないとあきらめていた」といった。そのいずれもが起こってしまったのに、日本の風景は変わらない。新聞の姿勢が生ぬるいからではないか。

こだま投稿 4月14日 西日本新聞社説「統一選前半戦」

 私が住む選挙区の県会議員は、政党県組織の要職に就いている。だが議員が新聞紙面に登場するのは選挙期間中をのぞけば年間数回である。議員からは年4,5回議会報告が届く。これでは議員の活動の全貌を知ることは不可能である。日常生活の中で議員の存在感はほとんどない。議会報告がせめて月1の間隔でほしいところだが、今話題になっている政務活動費の全額を充てても費用は賄えない。
 有権者が地域政治に関心を持つには、新聞の働きが欠かせない。日常的に新聞を通じて議員の活動がみえてくれば少なくない有権者が必ず地域政治に目を向けてくれるだろう。安倍首相と同じくらいの頻度で地元の知事が写真付きで新聞に登場すれば、自ずと県民は県政に関心が高まるはずと、つくづく思う。
 14日社説では統一選前半の投票率の低さや無投票の増加を憂えているが、新聞がするべきことをしていれば嘆くことはなかったのにと思われて仕方がない。新聞に期待は大だ。

こだま投稿 4月13日 西日本新聞社説「福岡県知事選」

 13日社説は福岡県知事選をテーマとし、知事に対する注文を列挙している。だがいずれも選挙結果を受けてあらためて注文することではない。多党相乗りの選挙構図となった福岡知事選は信任投票でしかなく、有権者が何を県政に託そうとしたか分からないからだ。
 政策の対立は、安全保障政策やエネルギー政策など国政の場面こそ鮮明だと思いがちだがけっしてそうではない。世の中変わった。社説が示す小川県政の課題に〈子育て世代や高齢者が安心して暮らせる地域づくり〉がある。この課題は国の政策に頼っていても解決しない。地域政治こそが力を発揮する。地域の実情にあった具体的対応が問われている。
 めざそうとする姿をイメージ豊かに描き、そこに至る道筋を具体的に示して、政策の違いによって戦う自治体選挙こそが本来の姿だ。
 地域に根ざす西日本新聞は議会論戦はじめ政策を競う政党の動きを精力的に取材し報じてほしい。そのことで有権者の関心は高まる。

こだま投稿 4月12日 西日本新聞社説「政治とカネ」

 12日の社説は「政治とカネ」を扱っていた。論調として、〈法律には「抜け穴」が多い〉〈現行法の限界を露呈〉といった表現に見られるように法律の欠陥や不十分性を問題にしている。だが、いくらきびしい法律を制定しても結局抜け穴探しのいたちごっこに終わる。
 さらに問題なのは対症療法的にあれもこれもと法律を作る結果、政治の素人には手に負えないほどの複雑さが生じることだ。検察のさじ加減一つでで悪徳政治家の誕生となる。 政治とカネで新聞のやり玉に挙がった小渕優子議員は禊ぎの選挙を圧倒的に勝利し、あらためて総裁レースのスタートを切った。前近代的な資金管理をしていたという同陣営は、すべての膿を出しきったのか。新聞からは伝わってこない。あの大騒ぎはなんだったのか。
 法律には限界があるしあまりきびしくしすぎると政治家は萎縮する。法律は基本だけをびしっと決める。後は新聞と有権者がきびしく監視する。政治家へのたかりなど論外だ。

こだま投稿 4月11日 西日本新聞社説「親の監督責任」

 世の中には予期せぬ不幸というのが多いのだと11日社説を読んで知ることとなった。運動場で子どもがキックしたボールが外に飛び出してバイクで通行中の人に重傷を負わせると、これまで親に賠償責任が生じていたらしい。私はうかつにも知らずに三人の子どもを育てた。認知症の夫が損害を与えた場合、妻が賠償しなければならないという判決にも驚いた。悲観的な性分の人は「なんと生きにくい世の中か、結婚などせず隠遁生活をしよう」という気持ちに追いこまれるのではないか。
 過失ともいえないような、もちろん悪意があるわけではないようなちょっとしたミスで他者に損害を与える羽目になるというのは,ごく低い確率とはいえ遭遇することはあり得る。その場合、加害者となった人が多額の賠償をする必要もなく、被害を受けた人も十分な保障を得られるようなシステムをつくるのは個人の責任ではないのではないか。国が双方の人生を守る仕組みを作るべきではないか。

こだま投稿 4月10日 西日本新聞社説「両陛下パラオ訪問」

 天皇ご夫婦の、第二次世界大戦の激戦地ペリリュー島慰霊訪問を10日社説が取り上げていた。〈国策と戦争に翻弄された人々のことを忘れてはならない〉と論説を結んでいる。「忘れてはならない」のは誰なのか、主語がないのが気になる。曖昧さを感じるからだ。
 忘れてはならない人をはっきり示してほしい。国策がもたらしたというのなら、直接関与した政治家や軍人たちなのか、拱手傍観していた国民も同罪なのか、きちんと示さないと、この社説は何もいっていないことになる。「悪いことした人は反省してくれ、俺は知らないよ」ということで終わってしまうからだ。
 天皇皇后両陛下の志と実践に私は敬意を抱く。同時に、国策が多くの国民に惨禍をもたらしたのなら、まさに今安全保障論議をしている国会議員たちに地獄絵図の激戦地を訪れてほしいと思う。そうすることで選良として議論し決定しようとしていることの責任の重大さを身体にたたき込むことができるからだ。

こだま投稿 4月9日 西日本新聞社説「マイナンバー」

 〈国民への説明が足りない〉との見出しで「マイナンバー」をテーマにした9日の社説に注目した。確かに見出しのとおり、私たち国民に政府からわかりやすい説明がほとんどなく、ならば新聞の役割は大きいわけで、どのように果たす覚悟か知りたかったからだ。
 ところがあきれたことに、そのことへの言及はいっさいなく政府の尻をたたくだけの内容にとどまっている。社説は〈政府は制度のデメリットを含めた全体像や将来像についてもっと丁寧に説明責任を果たすべきだ〉となにやら上から目線で決めつける。政府が今から始めようとする施策について情報流失の心配や不正使用の危険が十分に考えられる、なんてかけるはずがない。そんな欠陥のある制度をなぜ法律を作ってまで実現させようとするのかと批判されるに決まっている。新聞だって同じだろう。新企画の記事には、これこれの副作用の恐れがありますとは書くまい。隠したがる政府に切り込むのが新聞の使命だ。

こだま投稿 3月29日 西日本新聞「自衛隊 私的制裁で懲戒倍増」

   自衛隊の使い道

 人を殺すことが究極の目標である軍隊は、それを持つことが戦争というおぞましい営為へと発展する危険にとどまらず、他にも難問を抱えていることを新聞の記事から知った。
 一つは精神的負担が高まり心の病に追い込まれるという悲劇である。17日朝刊は、03~06年にイラクに派遣された自衛官5200人の内28人が自殺したと伝える。さらに29日朝刊には〈私的制裁で懲戒倍増〉との見出しで、12年度は47人の自衛官が懲戒処分を受けたとの動きを一面トップで扱っていた。
 閣議決定された集団的自衛権の行使が法律によって裏打ちされ実質化すると、右の数字はさらに増えることが予想される。殺し殺される戦場へ行く確率が高まれれば、必然的に精神は荒廃しよう。死ぬ覚悟を注入するとの名目で上官による精神・肉体両面に対する制裁は凄惨さを増すのは火を見るより明らかだ。
 自衛隊の活動を災害救助に比重を移してきた流れは本当に素晴らしいことだったのだ。


こだま投稿 3月26日 西日本新聞「市町村議会アンケート」

   西日本新聞は地域政治の応援団たれ

 25日朝刊は、自治体議会を複数ページで取り上げた。地域政治応援団の私は歓迎する。
 一面トップ記事では議員提案などの少なさを指摘している。他のページの見出しも〈かすむ存在感〉〈不要論も〉と手厳しい表現だ。
 コップの水が半分になったとき、わずか半分しかないと落胆するのか、まだたっぷり半分もあると前向きにとるのかと同様、政策条例の議員提案が12市町議会であったことを少ないと断罪するのか、結構がんばっていると評価するのか、二つに分かれる。私は後者だ。
 新聞も是非後者の立場に立って自治体議会を励ますべきだ。なぜなら地域政治は、中央集権体制が長く続いた日本では気息奄々の五十年間を過ごした。十五年前の地方自治法大改正でやっと活躍の可能性を得た。今は離陸しようと必死にもがいている最中だ。悪条件かで12もの市町議会が議員提案をしているのなら、記者は精力的に取材に入ってその努力を顕彰してほしい。さらに拡大するように。


こだま投稿 3月19日 西日本新聞「春闘回答」

   一人一人の実態に迫れ

 〈大手ベア最高額相次ぐ〉という今年の春闘での主要企業の回答を伝える西日本新聞19日の見出しに、10%台の賃上げが当たり前だった時代を知る者として「あれれ」と思った。最も高い回答の日産にしても5千円である。平均給与を35万円とすると賃上げ率は1.5%に達しない。物価上昇率を下回るのではないか。
 わからないのは年金改定を報じる記事との関係である。そのときは、物価上昇率が2.3%なのに0.9の改訂では実質目減りだと書いていた。トヨタ、日産以外の大手企業の回答額は1%未満が多く〈最高額相次ぐ〉という表現は看板に偽りありといわれてもおかしくない。
 年金の場合怖いのは、物価上昇率よりも国保や介護保険掛け金の上昇だ。二桁台の上昇率も珍しくない。かたや物価上昇はまだまだデフレ状態が至るところにあり工夫すれば乗り切られる。だが公共料金は生活必需品だから逃れられない。記者は生活者の現実の日々の暮らしに密着して記事を書いているのか。


こだま投稿 3月19日 西日本新聞「自衛権歯止め要件 旧海軍との比較」

   最高政治責任者としてのおそれ

 自衛権行使歯止め要件について迫った15日の安部鉄也記者の、目の付け所に脱帽した。記事は、安倍政権により閣議決定された「新3要件」が旧海軍が定めた自衛権行使の3条件に類似していると指摘する。類似というか、文語調の条文を文意はそのままに現代文に書き換えただけではないか。うり二つである。
 日本国民の安全を守るために集団的自衛権を持たねばならぬという安倍首相の信念を無下に否定はできないと思う。しかし集団的自衛権を手中にした国家が、いかに歯止め策を精緻に盤石のもとのして組み立てようとも、国際関係のわずかな軋みから人と人が殺し合う戦争につながると歴史が教えているのだ。 安倍首相が戦争をしたがっているとは決して思わないが、一歩間違えば国民を奈落の底に突き落とすかも知れぬという畏れを、国政の最高責任者として持っているのだろうか。論戦の相手議員を小馬鹿にした笑みを浮かべる安倍首相の姿から、それを感じられない。


こだま投稿 3月15日 西日本新聞「デスク日記」

   言論人の覚悟

 15日のデスク日記を読んでびっくりした。宮崎正治デスクが首相記者会見の席でだろう、安倍首相に「健全な批判勢力でありたい」とあいさつしたことに対しての二つの反応だ。
 同席していた複数の他社記者から「勇気ある発言でしたね」と声をかけられたのが驚いた一つである。「政権に対して健全な批判勢力でありたい」は言論人なら基本中の基本だ。それを「勇気ある発言」と評価される。「一体どうなってるんだ、この国は」とあきれた。 そもそも「政権批判を自粛するムードは、実はメディアにもある〉と自覚するのなら新聞界は総力を挙げてその克服に当たるべきだ。政権批判の自粛は使命放棄に等しいからだ。
 二つ目の驚きは、〈政権中枢からは不快の念が漏れ伝わってきた〉と宮崎デスクが言及した点だ。「徹頭徹尾批判勢力でありたい」という挑戦的言辞なら分からなくはない。デスクの表現は「健全な」という穏当な形容詞なのである。政治権力者の奢りに唖然とする。


こだま投稿 2月17日 西日本新聞「分校守れ」

    危機は好機だ

 1月末の本紙に小中学校が減るとの記事があった。寂しい、何とかならないのかと暗い気持ちになった。17日の一面トップに見事な答が載っていた。記事は福岡県篠栗町での取り組みの報告である。児童数9人と小さな同町の萩尾分校の存続のために地域住人が結束し知恵を出していると記事は伝える。「地域にとって学校は学びの場だけでなく、人の絆を結ぶ核的存在。統廃合されれば地域の活力も失われる」との区長山下さんの言葉がいい。
 消滅自治体という言葉が脅しまくっているように人口減は危機の側面は多いだろう。だが危機は同時に好機なのだ。かつての寺子屋に戻ればいいではないか。兄弟が減ったかわいそうな今の子どもたちに大家族の喜びを与えてくれる。地域の行事や共同作業に参加して社会教育もばっちりだ。萩尾地区のように地域総出で学校を盛り上げていけば、教育、地域自治、少子化対策なんかをまとめて解決できる。効率化だけを考える場面ではない。


      政治家の品位

 予算委員会の中継をみていると、民主党の前原氏が安倍首相のヤジに謝罪を求めていた。尻切れトンボに終わったので、劣勢の民主党が揚げ足取りの質問をしたのかと思っていた。が、事実経過を知るととんでもない話だった。
 横綱相撲という言葉がある。首相は国会論戦ではまさに横綱である。政治権力も情報の質量も質問する議員と比べれば桁違いだ。その人が答弁席からやじったというのだから議会人としてお粗末きわまりない。話はそれですまないというから念が入っている。予算委員長の制止にも関わらず執拗にヤジを続け、おまけにその釈明の際に「公的組織に対しての誹謗中傷」までしたという。補助金をもらっている日教組と答弁したのだ。補助金は政府から交付される。その政府の最高責任者である内閣総理大臣が出してもいない補助金を出したという。万死に値するという大仰な言葉をさえ使いたくなる失態だ。外国の政治的要人もみたであろう。国益の毀損は甚だしい。


こだま投稿 2月16日 西日本新聞「堤論」

 15日の「提論」を読んだ。執筆した姜学長の、〈力でイスラム国を消滅するのは不可能、日本が選択すべきは、大規模な人道・復興支援を政府が率先することである〉との主張に全面的に賛成する。が、それで話はすむのか。
 血を流さず金だけでいいのかという主張への反論がない。私は堂々と放棄していいという立場だ。イスラム国はアメリカの力による対外政策の鬼っ子と考えるからである。中東の石油が絡んでの現地ゲリラ組織などに武器を供与し軍事訓練をし、用済みになるとそのまま放り出す。その彼らが今牙をむいている。まいた種は自ら刈り取ればいい。70年間平和国家に徹してきた日本は堂々と我が道を貫いて、批判されることは何一つないと私は思う。
 力による解決が不可能というのなら、有志連合による空爆を止めるように日本は働きかけるのか、という点も言及がない。さらに鬼っ子が肥大化するような愚は止めろと日本はいうべきというところまで示してほしかった。


こだま投稿 2月6日 西日本新聞「コラム春秋」

 新ハリウッドの黄金時代


 映画「めぐり逢えたら」は私にとって、心を温かくしてくれる宝物のような物語だ。七回見たが、そのたびにハリウッド映画の上質なユーモアと洗練された台詞と人間観察に感嘆し、心地よい気分にいつもさせてもらった。
 8日のコラム「春秋」は監督のノーラ・エフロンを取り上げていた。エフロン監督が女性であることをはじめて知った。意外な感じもしたし得心もした。女性が演出した映画と知ってあらためて作品に触れたいと思った。
 春秋は、〈後味のいいスパイスとユーモアがいっぱい〉という彼女のエッセイを紹介している。これも読んで彼女の世界に浸りたい。 ホワイトハウスのインターン、新聞記者、脚本家と知的な職歴の持ち主という。そのエフロン女史が「なによりもまず、自分の人生のヒロインになりなさい」と大学の女性卒業者にエールを贈った。さらに「既成のルールを破り‥」と続ける言葉も名作映画の場面みたいで、いっきょにエフロンファンになった。

こだま投稿 2月8日 西日本新聞「農協改革・分権改革」

  新聞記事も縦割りではなく

 8日朝刊2頁には「農協改革」と「分権改革」の記事が並んでいた。農協改革は当然として、分権の方も主要なテーマは「農地転用の権限委譲」であり、いずれも地域の農業のあり方に関する記事だった。当然に二つの記事は関係が深いはずだ。ところが並べて掲載されているにもかかわらず、二つがどのように関連し影響し合うのかいっさい触れようとしない。二つの記事は署名記事となっていて五人の記者が執筆していることが分かる。五人は互いに情報と意見を交換したのだろうか。
  第一次産業と第二次産業が独立していた単純な産業構造の時代とは異なり、現在は、農業の六次産業化といったことばが象徴的なように産業間が複雑に絡み合いながら営まれている。それに農地転用というのは文字どおり農業、工業、商業がせめぎ合う場であり、さらに住宅地確保という点では生活者と農業が深く関わる場面である。当事者への取材が不十分でそれらの視点が欠落した印象を受けた。

こだま投稿 2月6日 西日本新聞「」

 新利用者に優しい駅


 ななつ星の空前の人気などJR九州の活躍がめざましい。究極の豪華さともいえるデザインにはただただ恐れ入る。その一方で、新設されている駅舎のデザインの貧弱さ平板さにはがっかりする。吉塚駅や箱崎駅には何の旅情も感じない。落差はどこから生じるのか。
 〈JR九州30駅無人化〉との見出しが目に飛び込んできた。(8日朝刊)。駅員の存在は確かに平常時には、あまりありがたみは感じない。だが非常時に対応できる駅員の配置こそ鉄道会社の最低の責務なのではないか。大事故が起きたときの臨機応変の対策や、自然災害で運行に影響が出たときの乗客への説明など、いざというときに円滑で効率的な対応をするために駅員は不可欠なのだと思う。
 あえていえば、駅員というのは鉄道会社の利用者の愛の表現なのだと思う。きちんと配置して経営を成り立たせることこそが経営者に問われている。駅舎のデザインも駅員の新設も乗客の人生に豊かな彩りを与えるのだ。
 

こだま投稿 2月6日 西日本新聞「論壇時評」

  テレビ・インターネットとの違い

 政治家としてその活躍を期待している辻本清美衆議が予算委員会で質問するというのでNHKの国会中継を見た。期待に違わず安倍首相や岸田外相との論戦は聞き応えがあった。
 翌日(5日)の朝刊を読んで驚いた。辻本議員の質問は一つしか「衆院予算委論戦のポイント」で取り上げられていなかったからだ。論戦を報告する2面の記事には安倍首相とのやりとりは報告されているものの、ただ双方の言葉をなぞるだけである。辻本議員の質問の趣旨や狙い、安倍首相の答弁の意味とか背景についての説明はない。これでは国会中継を見た者にはなんの価値もない。これで新聞記者の使命を果たしたといえるのだろうか。
 政治離れ、政治不信が深刻である。有権者が政治に目を向けるようにするための新聞の役割は大きい。だが毒にも薬にもならないような記事を書いていては、有権者の関心を呼び覚ますことはできない。インターネットとは違う新聞の優位性を自覚し追求すべきだ。

こだま投稿 2月4日 西日本新聞「論壇時評」

  新聞の役割

 本紙論壇時評(一月三十日朝刊)を読み考え込まされた。今回の衆院選の争点についての論考である。選挙前には有権者が合意する景気対策などを取り上げ、選挙後には世論の抵抗の強い外交・安保などの政策を配置する、それが政治的リアリズムの必然的な帰結だという。これでは民主主義の要の制度である選挙の意義がないどころか選挙は有害なものになる。有権者の意思表明の機会を奪う上に、政権与党にフリーハンドを与えるからである。
 この問題だらけの選挙の現状にくさびを打ち込むことができるのは、新聞や論壇などの言論空間であろう。先輩たちが営々として築いてきた政治権力者の悪や不作為に鋭く切り込む新聞の機能を、現役の記者たちはどれほど認識し日々の取材活動に生かしているのだろうか。その覚悟や実践がないから心ある読者が離れていくのではないか。政府発表をなぞるだけのふやけた記事が紙面を覆う現状を、第一線の記者はふがいなく思っているのか。

こだま投稿 1月20日 岡田武史元監督提論「クラブ経営と地方活性化」

西日本新聞1月18日朝刊
西日本新聞1月18日朝刊

     伝家の宝刀

 サッカー日本代表の元監督岡田武史氏の提論(十八日朝刊)に感激した。〈ほらを吹くならでかい方がいい〉と列挙する夢にあふれた企画の数々にワクワクした。まだ構想の段階なのに〈何でだろうと思うほど、人やお金が集まってくれている〉というからすごい。〈私の方が結果を残すかも知れないが‥もう次世代〉だから〈監督はやらない〉そうで、その潔さもまばゆいばかりだ。ほれ直した。
 単に強いチームづくりだけではない。〈クラブ経営と地方活性化)と題するようにサッカークラブを中軸にした地域活性化策である。まず〈日本人にあった「型」をつくり、実践できるトレーニングメソッド〉をつくるという明確かつ骨太の目標がある。その大きな幹に国内外から人を集め枝を茂らせ花を咲かせ結実させていく、といった感じだ。町づくりは、こういう手法でないと、着実な発展はしないと思わせる。舞台は人口十七万人の今治市だ。糸島市とか福岡の都市も可能性大だ。

こだま投稿 1月16日

     制度ではなく当事者の気概だ

 〈分権提案4割「却下」〉という見出しで十六日朝刊は、地方が提案した権限委譲や規制緩和を「実現できない」とする政府方針が公表されたと伝える。政府を批判する論調だ。

 だが果たしてそうか。地域分権の流れは2000年の地方自治法大改正で革命的ともいえる転機を迎えた。機関委任事務の廃止という自治体にとって長年の悲願が実現したからだ。中央政府に何の気兼ねもなく自由に、地域住民のための施策を実施できる権利を得た。
 その後の自治の歩みはどうだったか。大改正の前と後とで自治を取り巻く風景が変わったとは言い難い。地域自治をめざした者たちは本当に機関委任事務の廃止が悲願だったのか。機関委任事務という制度があるから思うように自治行政が進められないという言い訳として使ったにすぎなかったと疑いたくなる。
 また今度も権限委譲がないから、規制が緩和されないからと自治がうまくいかない言い訳に使うのか。記事は甘えを助長しかねない。

こだま投稿 1月14日

     ジャーナリストの見識

 西日本新聞一面トップは十三、十四日と二日続けて朗報を伝える見出しだった。ところが記事を読むと〈ごみ処理の「ごみ」有効活用〉にしろ〈余剰太陽で水素製造〉にしろ、緒についた段階で成功するのか、実用化できるのか不確定なことばかりだった。いずれも一面トップを飾る価値があるとは思えない。
 〈水素製造〉には別ページに解説記事があるというので読むと、理解が進むどころか逆になぜこの程度のことが一面トップなのかという謎は深まるばかりだ。九電が再生可能エネルギーにも力を注いでいるというポーズをとるために発表したことを、記者がまんまと乗せられたのではないかと勘ぐりたくなる。
 地球環境やエネルギーに関する課題には人々の関心は高い。朗報には飛びつきたくなる。それをいいことに企業や研究機関が発表したことを、裏打ちをする取材をまったくせずに安易に一面トップ記事に仕立てる。新聞の自殺行為だと、新聞を愛するゆえに叫びたい。

◇ こだま投稿 1月11日

     日韓の絆

 川副弁護士の「在野法曹の日韓交流」と題する今週の提論を読んで、日韓の不幸な関係に心を痛めている者として希望をもらった。
 法治国家の根幹を担う弁護士たちが、互いの国の〈直面する司法制度や裁判、弁護実務〉などについて〈実情と課題などを紹介し合い、真剣な意見交換〉をしている、という報告だ。その営みから、司法の分野では韓国の方が先進的であることや、司法改善の背景に、金大中氏から朴現大統領に至る歴代大統領が指導力を発揮してきたのが分かったと紹介する。
 川副弁護士の筆致から、両国の弁護士たちが互いに信頼し敬意を示しながら交流し、自国の制度の改善に心血を注いでいる様子が手に取るように伝わってくる。協力し互いに高め合うべき隣国どおしが逆にいがみ合っていることの愚かさを痛感した。韓国に地理的に近い九州では法曹界に限らず多くの分野で交流が深化しているのだろう。それらの精力的な取材は西日本新聞の使命である。がんばれ。

◇ こだま投稿 1月10日 井上真由美記者「生活困窮者と特養就労」

   井上真由美記者に期待する

 十日朝刊一面〈生活困窮者特養で特訓〉の記事に目が吸い寄せられた。私は現役時代に生活保護担当員(ケースワーカー)をしていた。悩むことの多い難しい仕事だった。とりわけ困難さを痛感したのは就労指導である。
 就労指導といっても強制はできない。被保護者本人の意思が決め手だ。担当員は就活の結果を待つだけだ。被保護者就職の受け皿となる事業を行政の側がもっていればとつくづく思った。そうすれば、被保護者の就労条件に応じ半ば強制的に就けさせることができる。
 さらに仕事の中身も、自治体が現在課題とする「高齢者の福祉」「環境改善」「農と食の改善」などの仕事を用意して就いてもらう。そうすれば自治体の課題も前進する。一石二鳥にも三鳥にもなる施策となる。被保護者には仕事、担当員にはやりがい、行政には課題前進と保護費削減というわけだ。特養を受け皿にするという着想には脱帽した。執筆した井上真由美記者には息長い取材を期待する。
 


◇ こだま投稿 1月6日

   景気回復実感のなさ

 西日本新聞5日付の社説は、安倍首相が経済政策の成果を誇るのに、世論調査では実感がないとの声が多いことに切り込んでいた。
 実感がない理由として社説は、①格差拡大、②非正規労働者の問題、③成長戦略停滞を上げる。経済指標から導けば、そうなるのだろう。だが生身の生活者としての実感はどうも違う。私は年金生活者である。年金受給額は比較的恵まれている方だ。だから年金制度に感謝している。さらに終身雇用当たり前の時代に職業生活を過ごしたから非正規労働者とは縁遠い。その私でも景気回復の実感はない。
 円安効果は限られた企業だし、株価高は一部の資産家だけが恩恵を受けている。一方で2%物価値上げを政府・日銀が一体となって狂奔している。私の立場からは、アベノミクスなるものはそういうふうにしか映らない。日銀は金をばらまいているようだが、その金は誰が負担するのか。株で儲けているのは外国人投資家ではないか。疑念は募るばかりだ。


   またも発表記事

 5日朝刊の〈空き教室転用のススメ〉という見出しがけつられた記事は、いったい何がいいたいのか理解に苦しむ内容だった。公立小中学校の空き教室の転用のやり方を文科省が自治体に提供するというものだ。なんでそんなお節介をしなければならないのか。記事中に〈地域の実情に応じて有効活用〉とある。だったらなおさらではないか。自治体に全面的に任せればいいことだ。さらに〈自治体内の部局間調整を円滑に進める方法〉も提供するという。国の縦割りを自治体に押しつけておきながら何という言い草か。あきれ果てる。
 記事を最後まで読むと、「なんだそう言うことか」と鼻白んだ。文科省は〈転用費の一部補助制度〉を分かりやすく解説する考えだと記事は締めくくる。何のことはない、予算枠を維持するための文科省の悪あがきなのだ。
 文科省の使命感のなさには天誅だと叫びたくなるが、それ以上にがっかりするのは、当局発表をそのままなぞる記者の見識である。