西日本新聞を読んで気づいたこと感じたことを、あるいは西日本新聞への注文を、こだま投稿という形で

書いています。

 

◇ 雑文(こだま投稿) 10月12日

  九条大賞で平和国家日本に弾みを

 憲法第九条がノーベル平和賞の有力候補と報じられていたが尻すぼみとなり、結局落選してしまった。残念だ。満身創痍にみえる九条が受賞して巻き返す絶好の機会だったのに。
 ここは逆転の発想だ。憲法第九条大賞を設けるのだ。非暴力という思想を根幹に据えて世界の平和のために粉骨砕身している人・グループを表彰するのはどうだろうか。現政権には期待できそうにないから、平和団体、民主団体などが表彰の主体となる組織を創る。広く国民や企業に表彰資金を募る。いまだ経済大国日本だから集まる金はハンパじゃないだろう。ノーベル賞の十倍の賞金をはずむことができる。金の力で権威を高めるのは少々後ろめたいが、目的は正義だから目をつぶる。
 ノーベル賞の政治的影響力をしのいで、平和に関心を持つ人、戦争を恐れる人の耳目は日本に集中する。九条大賞が世界の平和づくりを先導する使命を果たすことによって名実ともに日本が平和国家になることをめざそう。


◇ 雑文(こだま投稿) 10月7日

  国民の生活と安全を守るために

 北九州市議会の暴追決議に関する記事(6日朝刊)を読んでなんだかおかしいと思った。人は誰でも無法な暴力は怖い。それは高邁な理想を求める政治家でもそうだろうし、暴力は悪だと教える学校の先生だって同様だろう。暴力団との対決の前面に立てといわれれば尻込みしたくなるのが人情だ。暴力団を取り締まる警察以外は危険な立場に立つ責任はない。
 問題は、暴力団による犯行との可能性が高い「警察関係者が重傷を負わされた事件」で犯人を捕まえることができない現状にある。警察関係者でさえ危ないのになぜ一般人が暴力団の矢面に立たねばならないのか、とうことだ。議会人の弱腰の是非ではなく、弱腰にならざるを得ない構造こそが問われている。
 政治家も教育者も報道人も暴力団報復の恐怖を感じつつ、その本来の使命に臨まねばならないことこそが、法治国家日本の危機なのだと思う。私には集団的自衛権論議がむなしい。安部総理は先にすることがあるだろう。


◇ 雑文(こだま投稿) 9月5日

 腰を落ちつけて 焦ることはない

 安倍改造内閣に対し「改造したふり内閣だ。留任が6人で新鮮味に欠ける」と海江田民主党代表は評したそうだ。野党第一党党首としての品位とか見識が感じられない。業界そのものが危機的状況になっっているというのにけなしあっていても始まるまい。脳天気だという印象を受ける。次の内閣の存在感を高め政権を中枢で担当した実力野党として堂々と自民党に政策論争を挑めばいいのにと思う。
 一方、自民党関係者の「適材適所で重厚な布陣だ」と手放しの讃辞にもしらけてしまう。大企業とか大株主とかには善政かも知れぬが、我々年金生活者にはことさらありがたくなるような安倍政策ではなかった。改造したからといって劇的に変わると期待できそうにない。
 内閣改造関連記事を読む限り日本政治が本来の機能を持つのはまだ先のようだ。小選挙区+二大政党のモデルとなったイギリスでは十年超単位で政権が変わる。政治家も有権者もメディアも焦らず政治に関わっていこう。


◇ 雑文(こだま投稿) 8月5日

 不安を煽るな

 〈永田町を歩く。暑い。それに静かだ〉で始まる毎日新聞四日の一面コラムは、政局の動きがほとんどない日本の政治状況を話題にしていた。だからか、西日本新聞一面トップは四日連続して「佐世保同級生殺害事件」だ。
 いくら何でもひどすぎる。確かに事件の突出した特異性は認める。だが、一面トップを四日間も独占すると、今の日本には精神を病み何をしでかすか分からない不気味な若者があちこちに潜在しているような印象を与えかねない。紙面割付担当者の平衡感覚を疑う。
 縁あってこの夏、中体連のスポーツ大会に参加する中学生の姿に接してきた。健全な若者が圧倒的に多いというのが私の確信だ。世の中の暗い部分をことさらに取り上げようとするマスメディアの姿勢に疑問を感じる。テレビのバラエティー番組なら分からないでもない。新聞は幾星霜の苦闘の末一面トップの権威と意義を確立してきた。読者の好奇心を煽るだけの一面トップに堕落してほしくない。


◇ 雑文(こだま投稿) 7月8日

   後一押しではないか

 七日夕刊一面トップに「レジ袋有料化」の停滞を報じる記事が載った。足で稼いだ記事だが全体につっこみ不足との印象を持った。
 有料化の難しさとして客の反発の具体例が示される。袋を投げつけたり商品をレジにおいたままにしたりがあるという。店の担当者がいったことにうそはないのだろうが、実際に記者は有料化の店のレジを取材したのだろうか。袋を投げつけるというような光景が日に二、三回もあるとは思えない。第一そんな悪質な客は、店にとっては二度ときてほしくないはずだ。有料化した方が店にとって敬遠したくなる客を遠ざける効果があるわけだ。
つまり有料化が困難だとの理由とはならない。
 大分県では二十一社の協力を得て袋の値段を統一して成功した、しかし福岡県の担当者は歯切れの悪い答しかしないと記者はいう。「えっ、取材はそれで終わり」とつっこみたくなる。近所の店は有料化ではなくポイントサービスをして好評だ。打開の選択肢は多い。
 


◇ 雑文(こだま投稿) 7月2日

   戦場に送り出す

  西日本新聞二日朝刊見出し〈自衛隊員賛否割れ苦悩〉が今回の集団的自衛権を行使することを決めた閣議の問題をあぶり出している。
 安倍首相は、集団的自衛権に踏み込むことによって抑止力を高め、外国から戦争を仕掛けられることを防ぎ、より戦争をしない日本になるという。だがそのためには国民の多くが一致団結して外国からの圧力をはねのける不退転の決意をする必要がある。閣議決定時点の現状はどうか。集団的自衛権行使について、国民の間で完全に意見が二分されている。これでいったい侵略軍がたじろぐのだろうか。
 私は、思想統制して一億一心火の玉になれと時代錯誤な主張をするつもりはらさらない。少なくとも安倍首相は抑止力を高めようという意思があるのであれば、拙速に閣議決定をするべきではなかった。最低でも選挙による国民意思の集約が不可欠だった。自衛隊員を、国民の半分が反対しているというのに殺し殺される戦場に送り出すのはあまりに酷である。


◇ 雑文(こだま投稿) 6月22日

   暴力団宣伝映画

  「海猿」という映画がヒットして、かっこよく描かれた海上保安庁職員への就職希望が増えたと聞く。映画は極上の娯楽であり芸術でもある。加えて社会的影響力をも持っている。民主主義の前進、平和な社会の構築、地域社会の自治の拡充などに頑張っている弁護士やジャーナリストや地方公務員をかっこよく描いて就職希望者が殺到するように映画製作者は頑張ってほしいと私は心底願っている。
 巨大利権にうごめく暴力団を、二十二日朝刊が伝えた。暴力団という反社会的な組織とその組員をかっこよく描く作品が次々につくられてきたのが日本映画界だった。映画を見てやくざにあこがれて暴力団の組員になったという若者は少なくないだろう。暴力団就職を促進する宣伝映画が何故こうも日本には多いのか。作品が多いだけではない。たとえば「仁義なき戦い」など高い評価を与えられている作品も数多い。映画評論家の見識を疑いたくなる。暴力団撲滅運動が聞いてあきれる。


◇ 雑文(こだま投稿) 6月17日

   政府の少子化対策の弱点

 十七日朝刊から〈少子化対策 国の姿勢は〉がはじまった。国の施策の現状に迫り、かつ分析して少子化打開の道筋を見つけてほしい。
 第一回目を読んでいて政府による少子化対策の限界を感じた。政府の認識として〈少子化は国力を衰退させる〉ということばが記事中に紹介されている。上から目線という印象を受ける。少子化は確かに、産業を発展させ福祉を増進しようとする国家にとってなんとか食いとめなければならない課題であろう。
 同時に、我が子を産み育てて愛し助け合う家庭をもちたい個人にとっても少子化はつらい現実だ。経済的に、あるいは将来設計がたてられず結婚をためらい子を持てないのは、人生の成否を左右しかねないほどの大問題だ。
 政府の対策は彼らの不安や苦悩に無関心のように映る。働くことによって国を支えている人たちの思いや目線を取り入れ、彼らが子をつくりたいという意欲や夢を持てる様な政策づくりこそ少子化対策の出発点ではないか。


◇ 雑文(こだま投稿) 6月12日

   人材難の真相

 原子力規制委員会の人事を伝える十二日朝刊記事に違和感を持った。人材難だから多少疑問視される「田中知東大大学院教授」の就任も致し方ないといった内容であったからだ。
 人材難と決めつける記事にいらいらしてしまった。原子力発電所に不安を持つ者からすると、在野に多くの優れた原子物理学の専門家は多数いて、記事がいう〈電力会社と丁々発止できる専門性を備えた人〉がいないから、業界との関係が深い人を選ばざるを得ないというのは納得できない。まさに目が点になる。
 任命する政府の立場は明白だ。電力会社のオーバーランにはくぎを差すことのできる専門性をもち、しかし原発推進の方向性は政府と共有できる専門家を任命したい、となると対象となる専門家は少ない、というものであろう。だから政府が人材難をいうのはわかる。だが新聞までが同じ立場に立って人材難をいえば、政府を監視すべきメディアとして使命の放棄であり、世論をミスリードしないか。


  徴兵制まで行き着く覚悟なのか

 西日本新聞十二日社説は、集団的自衛権行使容認を急ぐ安倍首相のバランス感覚のなさを諫めた論調だった。私も危うさを感じる。
 正確には覚えていないが「九条があるから入った自衛隊」といった趣旨の川柳があった。集団的自衛権を活用すれば、「戦争に自衛隊が派遣される確率が高まる」と、少なくない人が不安がるだろう。安倍首相が積極的平和主義だと訴えても疑心は生じ、自衛隊入隊を希望する若者とその親たちがどう反応するかは目に見えている。入隊志願をあっさり引っ込める若者が続出するのではないか。良くも悪くも今の日本は平和ボケしているからだ。折から人手不足社会の到来を告げるかのような動きも強まっている。となると徴兵制が日程に上がってくるのは時間の問題ではないか。
 国会中継では、野党の分からず屋とバカにしたような安倍首相の笑顔を見せつけられる。その笑顔に、政権瓦解の危険を孕む徴兵制を持ち込む覚悟と決意を見ることはできない。

 


   攻撃は最大の防御なり

 人と人が殺し合う戦争を美化してきたのが人間の歴史の一面である。〈発動例「大国の乱用」内紛介入の口実に〉との見出しで、西日本新聞八日朝刊が明らかにした「集団的自衛権行使の実際例」を読みそのことを思った。
 今政治の場で議論されていることとの落差の大きさにただただ驚く。集団的自衛権という言葉には、強大国から攻め込まれた弱小の国々が自衛のために力を合わせるとの響きがある。記事は全く逆の事実を伝える。圧倒的軍事力を持つ国が、自分の意に添わない小国や反旗を翻した小国に対して行使してきた実例ばかりである。自衛という趣は全くない。
 行使した国の名前にソ連、米国、英国が並ぶ。武力に頼って小国を意のままにしようとしたそれら大国と同じ道を日本も歩むのか。
 記事にはもう一つ初めて知った事実があった。集団的自衛権を固有の権利と認めた国連憲章五十一条は、実は極めて限定的にしか主権国家の自衛権を認めていないという事実だ。


◇ 雑文(こだま投稿) 6月3日

  ほのぼの記事がもっとほしい

 ある企画のために、ほのぼのした気分にさせてくれる記事や明るい希望を与えてくれる記事を、毎日配られてくる新聞紙面から探してみることにした。愕然としてしまった。あまりに少なかったからだ。三十ページをこえる朝刊なのに良くて二件どまり、全く見つけることができない日もある。嫌な世の中だなあと思わせる記事が何でこんなに多いのか。
 暗い記事や犯罪記事をなくせといいたいのではない。要はバランス感覚だ。現場の記者と後方のデスクが楽しい新聞紙面作りに気合を一つにしてほしい。楽しい話があったから記事にするという待ちの姿勢ではなく、世の中の動きから明るい兆しを鋭敏に感じ取りすくい取って、朝新聞を開けば生きる喜びが沸々とわいてくるようにしてほしい。新聞は読者に生きる希望や勇気を与えてほしいと思う。
 たとえば三日の熊本市長の四選不出馬の記事では新しい政治の動きをとらえた内容にしてほしかった。政治家だから思惑はあろうが。


 集団的自衛権とは、要は

 拳銃や刀を携えて隣近所の家に押し入っては乱暴狼藉を働いてきた者がいた。死者も出れば財産も奪われる。あまりにひどいというので隣町の実力者が懲らしめてくれた。もう二度と押し入ったりしません、そのために武器もいっさい持ちませんとあやまった。だが舌の根も乾かないうちに、武器がないと泥棒に押し入れられても防ぎようがない、絶対に他人を傷つけるようなことはしませんから刀だけでも身につけさせてくださいと頼む。少なくともそれくらいは市民の権利でしょうというわけだ。護身にだけにしか使いません、武器ではなく道具ですと言い張る。そのうち隣近所で泥棒被害が何件か起きたとうわさが流れる。泥棒被害の防止のために助けにいかないと自分のところがやられたときに助けに来てくれない。だからどこにでも出張ることができるようにさせてくださいと言い出した。
 集団的自衛権を認めるということはそういうことだ。議論の余地はないと思うのだが。


◇ 雑文(こだま投稿) 5月29日

 世界に冠たる日本の製造業は半面で重大な欠陥を持っている。たとえばブルーレイディスクが故障する。読みとり装置というほんの一部分がダメになっただけで、その取り替えに型式が古いという理由で新品に匹敵する費用がいる。頻繁なモデルチェンジの弊害だ。ドイツやイギリス製品の息の長さに比べ日本製品は次々に新製品が出る。デザインが短サイクルで変われば問題は増える。技術者も自分が作り出す製品に愛着を持てまい。購入者も使う悦びや持つ誇りがわかない。一番気が重くなるのは資源の無駄遣いということだ。
 西日本新聞二十七日朝刊に〈「カブ」に立体商標権〉と見出しがあり、〈発売から約半世紀にわたってほぼ変わらないデザインで販売〉と記事はいう。カブと折り込み入れ器が新聞販売業の仕事の進め方を劇的に変えたと、半世紀近く新聞販売店を営んできた私の弟は感謝を込めてほめたたえる。日本にも変わらぬデザインの魅力を持つモデルがあったのだ。

 

 


◇ 雑文(こだま投稿) 5月29日


 集団的自衛権という六文字の言葉が連日新聞に載っている。こうも連日だとこの言葉が市民権を得ているような錯覚を与えるのではないか。さらに問題なのは、集団的自衛権という言葉が名は体を表していないという点だ。
 自衛とは自国の国民の命や財産を守ることである。しかしアメリカめがけて発射されたミサイルを打ち落とすことが何故自衛なのか。自国民を危険にさらすだけの愚策でしかない。 日本は七十年にわたり他国から戦争による攻撃を受けていない。日米安保と自衛隊という抑止力によるというよりも、先進国同士が戦争することがあり得ないからだ。共滅を意味するからである。だから自衛隊は戦いによって一人も死んでいないし、一人の敵も殺していない。それで十分ではないかと私は思う。
 七十年間も戦争の惨禍に見舞われなかった日本である。六十六歳になった私はそのありがたさにただただ感謝する。平和であり続けるには平和国家に磨きをかけるのが良策だ。


◇ 雑文(こだま投稿) 5月15日

 ここ四ヶ月ほど、西日本新聞の記事を素材にしてこだまに投稿してきた。残念ながら掲載率は低い。だがそれでもしこしこと執筆を続けているのはあることに気づいたからだ。記事に反応し投稿することこそがこだま欄の究極の姿なのではないかという気づきである。
 記事を読んで読者が意見を形成する。それを投稿という形にして新聞編集部に届ける。そうすれば編集部と読者との間に議論や意見交換がはじまる。新聞の論説が読者にこだまし、さらに読者の意見が新聞紙面に反映しこだまが幾重にも広がっていく。そんな営為の積み重ねが、新聞の最大の使命である民主主義の土台づくりを、強力に支え補完することとなる。同時にそれは優れた紙面モニターにもなるし、読者の紙面に対する要望や注文を把握する調査の役割も果たす。読者の指摘が読者本位の紙面への改善を促すかもしれない。
 ともあれ「こだま欄」とは絶妙の命名だと感嘆しつつ生ある限りつきあっていきたい。


◇ 雑文(こだま投稿) 5月14日

 喜んでいいのか悲しむべきなのか

  新聞各紙は十三日、自動車大手八社の決算が出そろったとして、内六社の最終利益が過去最高を更新したと報じた。日本製造業の雄であり外貨稼ぎの旗頭である自動車大手の六社が、通常の利益だけでも膨大なのに過去最高をたたき出したのだから、これは快挙である。数多い裾野産業まで考慮すると、日本製造業に死角なしと素人は単純にうれしくなる。
 しかし翌四日、一転して〈経常収支黒字最小〉という見出しの暗いニュースが目に飛び込んできた。〈比較可能な1985年度以降で最小となった〉という。喜ぶべきなのか心配しなければならぬのかさっぱりわからない。
 安倍政権の経済運営の考え方は、まず企業に元気になってもらう、いずれ恩恵は下々まで降りてくるから大丈夫というものだ。企業隆盛のためには税制も見直すし、雇用のあり方も企業本位に進める。無関係な我々も企業の動向に注視せざるを得ない。その辺りの関係を新聞は我々がわかるように書いてほしい。


◇ 雑文(こだま投稿) 5月12日

 ジャーナリスト精神の枯渇が心配

 政治は対立する者の利害を調整する営みといえる。交渉とか駆け引きは必要だろう。有利になるために情報を隠したり騙し合いの様相を呈したとしても一概に批判はできまい。
 とはいえ十二日朝刊の、憲法改正に関わる記事は見過ごしにできない。憲法改正の地均しに環境権を持ち出すという記事である。記事は「見せ球」という野球用語を使って説明する。国民に拒否感の少ない条項や時代の流れから追加に異論の少ない条項で〈「国民投票を3、4回行って改憲アレルギーを除去する」算段を描く〉と記事は書く。本丸9条の見せ球に環境権を使うというわけだ。見せ球すなわち騙しである。憲法という国の最高法規の見直しにあたり騙しのテクニックを使う、あるいは国の政策の重要課題である安全保障について騙しの手口を使う、言語道断である。
 与党の姿勢も問題だ。が気持ちが暗くなるのは、このようなもくろみに対し報道人としての批判精神を記事から感じとれないことだ。
 


◇ 雑文(こだま投稿) 5月12日

  警察・検察の取り調べの可視化を議論する「法制審議会」の周防委員にインタビューした記事を読んだ。委員は映画監督で市民の側に立った柔軟な答えが素晴らしいと思った。監督が伝える警察・検察の可視化をかたくなに拒否する姿勢にあきれた読者は多いだろう。
 現役時に違法者取り締まりの業務に携わったことがある私は、警察側の立場に立ってしまう。違法者に向かい合う場合、どうしても我は正義なりという慢心が生じる。つまり自分の側に落ち度があるはずはない、悪いのはすべて違法者の方である、と思い込んでしまうのだ。第三者の目を通さずとも職務に忠実に努力している、任せてくれという気持ちだ。
 あと一つは、違法者は基本的に悪質だから、そのやりとりを公開することは、こちらの手の内を相手あるいはあとに続く者に知られることになる。それは困るという感覚だろう。
 記事では議論は平行線のようだ。取り調べ側は現状をさらけ出し実のある議論を願う。

  


 夢か悪魔か

 3Dプリンターの機能の豊かさはこれまでバラ色に描かれてきた。私も、今はまだ高価だが寿命のある内に入手できるような金額に下がるだろうから楽しみにとっておこうと期待していた。起こってみれば想定内のこととはいえ、実弾が飛び出す拳銃とはびっくりだ。
 不気味さも覚えるが、過剰に反応するほどのことではないのではないか。西日本新聞十一日の記事に登場した〈銃犯罪に詳しい〉という大学教授は〈日本の銃規制は全く意味がなくなった〉とまで極論する。拳銃ほどの威力や簡便さはないにしても殺傷能力を持つ包丁は誰でも所有できる。だからといって殺人事件があちこちで起こっているわけではない。日本での年間殺人事件の件数は千件だという。
 日本で銃による悲劇が少ないのは制度だけがもたらしたのではない。長年培ってきた道徳心や助け合いの精神こそが安全安心の生活空間を日本にもたらしたのだ。そこをきちんと押さえた上で文明の利器対策を講じよう。

 


◇ 雑文(こだま投稿) 5月9日

 集団的自衛権論議の出発点

 西日本新聞八日社説は「集団的自衛権」を主題とし、理を尽くして議論の進め方を示し読み応えがあった。論点を整理すべきだとしていくつかの提言をしている。一々納得した。
 たとえば集団的自衛権と集団安全保障の混同を指摘する。私も、二つをごっちゃにした議論をテレビで聞き、本質を見失っていると疑問に思っていた。社説は、〈言葉は似ているが別の考え方である〉とし〈別建てにして議論を〉と主張する。私の疑問は氷解した。
 論点は、〈事実上「同盟国の米国が戦争するときに、日本はどうするのか」という点に限られる〉という。すっきりしてこの容認の是非を考えるときに大いに参考になる。つづいて〈果たしてそれが本当に起こるのか、現在の技術で対応できるのかなどを検証し、現実味のないものは論議から外すべきだ〉との考えを示す。実際政治家の議論を聞いていると戦争の惨禍がわが身に降りかからない場所から神学論争をしているとしか感じられない。

◇ 雑文(こだま投稿) 5月6日


 世界に冠たる平和国家

 小学校で教わって以来、スイスという国を平和を積極的に守る永世中立国として私は信頼している。付加価値の高い製品を作ることと相まって名誉ある地位を得ているようだ。
 翻って憲法九条を持つ日本は世界の人々からどう評価されているのだろうか。平和国家として敬意をもたれているといった記事は少なくないが、あと一つ具体的イメージが伝わってこない。スイス以上に平和を希求し実際にも世界平和のために日々の国際活動を進め、自ら作り出した豊かさを武器に、知恵も出し金も出し汗もかいていると評価されていれば実に大きな財産だ。軍拡に向かう中国を諫めるのに決め手となる。世界の評価を新聞は精力的に取材し分析しイメージ豊かに報道してほしい。平和憲法肉付けの強い追い風になる。
 一見リスキーな戦争放棄の覚悟をせっかくしたのだから徹底すべきだ。他国の戦争にも馳せ参じるなどと世界の人々が混乱する言辞は避け平和憲法を愚直に前面に出し続けよう。


◇ 雑文(こだま投稿) 5月4日

 歴史の教訓の重み

 東北大震災は多くの犠牲者を生み、その後も被害者に際限のない労苦をもたらしている。災害の圏外にいて日常生活を平穏無事に過ごすことができている私たちに課せられていることは、悲劇を教訓化し予防策を講じ事故に遭遇したときの万全の態勢づくりに努めることだろう。千載一遇の見聞を我々はしたのだ。
 憲法記念日の3日と翌4日の新聞には護憲・改憲の動きを伝える記事が多かった。私は押しつけ憲法という人の言葉に鼻白む。第二次世界大戦では三百万人の人が命を失ったという。東北大震災が数年間の間に百回も起き、ほとんどの日本人が悲嘆と憤怒に生きた時代だったのだ。敗戦を迎えた日本人は「戦争は金輪際嫌だ」と心底思い、戦争のない世を切望したはずだ。人様々もちろん例外もいようが、東北大震災と同時代に生きたが故に大部分の日本人がそうだったと容易に想像できる。
 私は、集団的自衛権をという若い政治家が、のっぺりした顔つきだなあと思えて仕方ない。


◇ 雑文(こだま投稿) 5月2日

 1年交代に弊害はあるのか

 福岡県議会の正副議長の辞意表明を報じる記事が2日朝刊に載った。1年間で交代するのを「たらい回し」と批判的に報じている。 〈正副議長の任期は地方自治法上4年〉とはいえ、我々の感覚でいえば、たとえば商工会など各種団体の会議での議長はその都度選ばれているのが一般的で、一年交代に全く違和感がない。議事運営上の要職に多くの議員が就いて、質が向上して効果的だとさえ思う。
 確かに、議長や副議長になりたがる背景には、議員活動の本筋から逸脱した議員の思惑があるのだろう。短期間の交代は弊害も少なくないだろう。だが、権力監視が新聞の大事な使命とはいえ、闇雲に批判するだけでいいのか。政治家不信が増幅してしまわないか。
 県議会の本務である会議での議論を新聞は精力的に取り上げようとしない。つまり議員が仕事をしている現場を読者はほとんど知らされず、今回のような記事が議会の現状を伝える。新聞は民主主義を盛り上げてほしい。


◇ 雑文(こだま投稿) 5月2日

 ストーカー対策のあいまいさ

 刑事物のテレビドラマでよくあるシーンに本庁と所轄あるいは捜査刑事と公安刑事の対立がある。修復不能なほどの仲の悪さである。犯人を捕まえるよりも手柄争いに血眼になるのが警察の習性のように写る。ドラマだから面白おかしく誇張しているとはいえ、その傾向があるからこそドラマは描くのであろう。
 2日朝刊の〈ストーカー相談警察縦割り解消〉とあってもすんなりと歓迎できそうにない。識者が〈警察の態勢整備は完成したと言っていいほどまで来た〉と見解を示している。なんだか鼻白む。関連記事も併せて読んでも、いったいなにがどう変わったから態勢が万全になったのかが伝わってこない。図解で説明されている司令塔型をどんなにみてもこの程度の見直しが、多くの被害者を出しながら何故今までかかったのかもわからない。とにかくいらいらさせられるのは、記事がただただ警察が発表した内容をなぞるだけだからだ。せめて被害家族の声を取材してほしかった。